渋沢栄一「論語と算盤」の言葉がいまいちピンと来ないのはなぜか?

企画・分析

今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公である渋沢栄一が話題になっているので、著書「論語と算盤」(守屋淳訳 ちくま新書)を読んだ。

が、イマイチ響かないというか、ピンと来ないというか、モヤッとした感触が残る。優れた内容であることは言うまでもなく、今の時代に読まれ、実践されるべき事柄であると感じるのだが、それとは別に、どうも言語化しにくい変な読後感が残るなと思っていた。

ところで先日、「『高校生がカネを稼ぐ』をテーマとしたイベントで同人誌を転売したことを発表しDMM会長らが賞賛、cakesに掲載したレポートが炎上」という騒動があった。概要は以下の記事でまとめられている。

▼参考
高校生によるコミケ同人誌の転売報告記事が炎上→cakesから削除 イベント主催側が謝罪(1/2 ページ) – ねとらぼ
DMM亀山会長、cakesの“転売容認”記事について謝罪 「配慮に欠けた発言をしてしまった」(1/2 ページ) – ねとらぼ

同人誌転売そのものについての話は置いておくが、諸々の問題があるであろう行為を「カネを稼いだから立派」として賞賛する行為などは、まさに「『論語と算盤』を読め」事案だろう。

本書における渋沢の主張は、一言でまとめれば「私益に走るな、公益を図れ」であると解釈する。前掲の書籍冒頭において訳者の守屋氏は、次のように記している。

 もともと「資本主義」や「実業」とは、自分が金持ちになりたいとか、利益を増やしたいという欲望をエンジンとして前に進んでいく面がある。しかし、そのエンジンはしばしば暴走し、大きな惨事を引き起こしていく。日本に大きな傷跡を残した1980年代後半からのバブル景気や、昨今の金融危機など、現代でもこの種の例は枚挙に暇がない。
 だからこそ栄一は、「実業」や「資本主義」には、暴走に歯止めをかける枠組みが必要だ、と考えていた。
 その手段が、本書のタイトルにもある『論語』だったのだ。
( 守屋淳訳 ちくま新書「論語と算盤」 P.008より)

前述の高校生の件についての話は、これ以上ない。そして、あらためてこの「論語と算盤」という本だが、実も蓋もなく言うと「ツイッターで得意げに紹介したい」みたいな、わかりやすい言葉が見当たらない。なぜだ?

と、ずっと考えていたのだが、要するに次の2つの理由によるのだなと結論したので、書き残しておきたい。

理由1:簡単に要約できない

理由の1つ目は、おそらくは渋沢流の真摯さで、難しいことを難しいまま述べることに躊躇がないからだろう。

現代の私たちは「論語の言葉」「孔子の言葉」とされるものあちこちで目にしているが、本書において渋沢は、よくある安直な解釈を否定し、こう解釈するべきである、という論を展開している。それが複雑で、きちんと読めばなるほどと思えるものだが、長い。

余裕で140文字を超え、理解に頭のリソースを多く取られるし、丸暗記するのも難しい。

例えば、孔子は富や権力を嫌っていたと解釈する者がいるが、それは「ひどい間違い」だとぶち上げる部分がある。

 例をあげると、『論語』のなかにこんな一節がある。
「人間であるからには、だれでも富や地位のある生活を手に入れたいと思う。だが、まっとうな生き方をして手に入れたものでないなら、しがみつくべきではない。逆に貧賤な生活は、誰しも嫌うところだ。だが、まっとうな生き方をして落ち込んだものでないなら、無理に這い上がろうとしてはならない」
 この言葉は、いかにも富や地位を軽視したような内容に思われるが、実は一方の側面だけから解かれたものだ。よくよく考えてみれば、富や地位を軽蔑したようなところは一つもない。あくまで富や地位にのめり込むことを戒められただけなのだ。
( 守屋淳訳 ちくま新書「論語と算盤」 P.091より)

大変に重要なことを言っているが、文意を保ったまま要約するのが難しいし、分かりやすい言葉で簡単に言い切れない(なので、書籍の内容も長めに引用している)。イメージとして頭に残るが、キャッチーなフレーズとしては記憶しにくい。

分かりやすい言葉で言い切るのが重宝される「今」風ではないが、それだけのこと。いまいちピンと来ないと感じるのもこの理由が大きいが、決して悪いことではない。

理由2:視座が高すぎる

理由の2つ目は、視座が高すぎて今時の一般市民には共感しにくいためだと考える。「論語と算盤」は功成り名を遂げた渋沢の講演録から編まれたものだという。その言葉は、主に企業トップや国を動かすぐらいの立場の人々に向けられたものだと考えていいと思う。

一般の市民を無視していると言うわけでは決してないが、それにしてもムチャクチャ視座が高いと思う。「私欲に走るな、公益を図れ」は正しいが、「衣食足りて礼節を知る」という言葉もある。ある程度私欲が満たされなければ、公益どころではないのが人情だろう。

先の論語における富と権力について、渋沢は次のようにまとめている。

 いま、この一節を簡単にまとめると、
「まっとうな生き方によって得られるならば、どんな賤しい仕事についても金儲けをせよ。しかし、まっとうでない手段をとるくらいなら、むしろ貧賤でいなさい」
 ということになる。やはりこの言葉の一方の側面には、「正しい方法」ということが潜んでいることを、忘れてはならない。
「孔子は、富を得るためには、賤しい仕事さえ軽蔑しなかった」
 などと断言すると、おそらく世の中の学者先生は、目を丸くして驚くかもしれない。しかし事実はどこまでも事実である。
( 守屋淳訳 ちくま新書「論語と算盤」 P.093より)

まっとうで賤しい仕事、その反対は尊くて不当な仕事となるか。それぞれどういう職業が想定されているのか、解説が欲しい。

さておき、食うや食わずの人が、食い扶持を得る手段をまっとうか不当かで選べるかというと、なかなか難しい。そもそも渋沢自身、若い頃には豪農の生まれではあっても武士には勝てんので武士を目指そうと、「まっとう」か否かというよりは私益重視と見てもいいだろう人生の選択をする。

実際どのように考えたかは、本人のみ知るところだし、悪い選択だとは思わないが、それにしても晩年の渋沢翁の視座を持って、万人が行動できるもんでもなかろうと思う。

そもそも昨今の企業や国のトップが、渋沢が語るような規範意識を持ち行動できているかといえば、怪しい。

そういえば、東京オリンピックの会場でアルコール飲料を提供する予定という報道があって騒ぎになり、契約事業者であるアサヒビールに批判が向けられたことがあった。

▼参考
販売契約のアサヒビール「コメントできない」。五輪会場で『酒類販売を容認』と報道 | ハフポスト

結局、アルコール飲料の提供はなしとなり、アサヒビールから提供なしとの提案が行われたという話もあった。かつて、渋沢はアサヒビールの役員に就任したこともあったという。本件により、アサヒビールは元役員の顔に泥を塗ることを避けられたと思う。

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