「ライティングの哲学」。著者4氏の貴重な“苦悩や煩悶”がたっぷり綴られた怪書

執筆

この本を20代のころに手に取っていたら、変な方向に感化されてしまったり、絶望のあまりさすらいの旅に出てしまったりしたかもしれない。今の時代に出てくれてよかった。年をとって図太くなったので「なるほど多様な執筆スタイルや悩みがあるものだ」と、純粋に楽しく読めた。

本書は面白いが、よくわからない本でもあるかもしれない。共著者4氏が「書けない」悩みとそれでも書いていくための試行錯誤を赤裸々に語っているが、文章を書くことに悩む読者にヒントを提示しよう、といった姿勢は(ほとんど)見られない。

昨今の実用書や新書の多くは、著者が読者の「師」たらんとしている。何らかの問題に対する「解答」や「正解」が本の中にあるとアピールし、著者は読者に向かって語り掛けてくる。

ところが本書は、様相がまったく異なる。共著者の4氏が「書けない」ことを切々と語る座談会、座談会後の執筆スタイルの変化の紹介、締めの座談会という3パートで構成されるが、全編を通じて語りは4氏の中で完結しており、読者は観客のような立ち位置となる。

何というか、人が気取らずに悩み苦しむ様子や、何か(客観的に見て価値のある情報を)を語りながらも「すごいだろ」と特には思っていない感じなどに、とても新鮮で懐かしいものを感じた。

昨今「インターネット老人会」を名乗る人たちの平均年齢より上のユーザーの感覚では、古き良きネット社会の空気感がここにある! とも言いたい。生きた人間の文章を久しぶりに読んだ気にすらなった。

書くこと・書けないことの悩みに対する「解答」や「正解」など、どこにも存在しない。今日も苦しみのたうち回りながら書くしかないんだよ! という現実を受け入れたうえで、他者の考え方に触れたい人に、本書は超オススメです。

実際問題、売れっ子の書き手がこんな等身大の立ち目線から赤裸々に「書くこと」について語ってくれるのを聞く機会なんて、自分も売れっ子になりでもしない限り、そうそうあるものではない。そこらへんのトークライブに行っても、もっと気取った、取り繕われた話しか聞けないものだ、大抵は。

以下、とりとめなく雑感を書いておきたい。

「書く」ことの定義が共有されていない

本書のテーマは「書く」ことであるが、「書く」とは何なのか、という定義が本編中で一切共有・確認されていない。前提が共有されていないといえば、最初のパートが異常にアウトラインエディタの話題に偏る理由も、はじめはよくわからない(途中で語られる)。

実は「書く」というのは、意味の幅が広い行為だと思う。議事録を取るような行為も「書く」と言えないこともないし(とはいえ「執筆」ではないか)、小説、エッセイ、評論、ハウツー、ニュースなど、書くものによっても、手法は自ずと異なる。

と、いうことが気になったのは、読んでいて私の「書く」のイメージが、著者4氏の共有する「書く」と、けっこうズレているのでは? と思ったからだ。

私の中では、何かを書くためには「1.構想を固める」と「2.書く」の2段階でやっていく、というイメージを持っている。1の段階では本を読んだり散歩をしたりしながら、全体の話の運び方や軸にするキーワード、冒頭の入り方などを考える。

そして、ある程度の密度のある構想になったら、エディタなど(最近ではGoogle Keep)にばーっと書いていく。なので、1の段階の苦悩に関しては「構想が固まらない」とか「イメージが湧かない」「アイデアが降りてこない」であり、「書けない」は2の段階において表現がうまいことまとまらない、みたいなところであるという印象が強い。

ただ、これは、私が近年ひたすら他者のいろいろな完成度の原稿をまとめ直す(本書で語られている瀬下氏の仕事に近い)ことに従事していたからかもしれない。

こういう作業の場合、構想はもう十分に固まっている。そして原稿ができてくるのだが、最初の原稿を書いた相手の中にはあるはずのすんばらしい思考が、文章化の段階で素晴らしさをかなり落としてしまっていることがままある。いつのまにかこぼれてしまったものを拾い集め、文章に素晴らしさをきちんと入れ込む過程が、近年の私にとっての「書く」だったかもしれない、と思った。

ちなみに「構想」と「書く」の2段階論でいうと、本書で語られているのは8割がた前者である。

読書猿氏は「頭が悪い」

本書の中で、読書猿氏はたびたび自身を「頭が悪い」とか「無能」とか言う。プロ野球選手が「俺は野球が下手だ」と言うようなもので、一般論としては、こういうこと言われても困る。単純に気まずい

ただ、読書猿氏がどんな分厚い(物理的にも内容的にも)書籍を手掛け、高い知の壁に向き合ってきた/いるかを考えれば、そりゃあ、そういう気持ちにもなるだろうなあと思う。そして本書のテーマがテーマなので、率直に自身が感じていることを表現されているのだろうなという印象を持つ。すごい。

別に巷の「文章術」本をDISらなくてもいいと思った

本書の中で何度か、「巷によくある文章術本」が批判される。わりとストレートに嫌悪感を隠さず言ってるな、といった印象の言い回しで。

ごく個人的な感覚としては、そういうものにわざわざ言及するレベルにいる著者ではないだろう、と思ったのだが、巷の文章術本は俺らの悩みにまったく答えてくれることはない、という苛立ちというか、寂しさのようなものがあるのかなあ、とも思った。

本書の「あとがき」で、このこと(だと思われること)に触れられてる。「この四人に共通するのは、ちゃんとしなければならない、だらしないのはダメだ、という規範に縛られてきたということだ」と。

「守破離」の理論でいえば、よくある文章術の教科書を読みながら書いてみる段階は「守」だ。本書で語られているのは「守」の段階に留まれなくなったあと、「破」から「離」へとどのように向かうか、という話だと言えるかもしれない。

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