わかる人は、わからない人のことが、わからない。「当たり前」を捨てた所にあるヒント

企画・分析

Twitterで衝撃的なツイートを見た。

「茶碗にごはん粒をいくつも残してごちそうさまする奴はダメ」てな内容の、ごはん粒が残った茶碗の写真まで添えられたツイートの返信を読んでいた。なぜそんなところを見ていたのか? おそらく心がヒマだったのだろう。

ツイート主への賛同や食べ方が汚い人への非難、そして「俺もきれいに食べるのが苦手」的な返信が続く中に、天啓のような一言があった。こんな感じの内容だった。

自分も苦手だったけど、あるとき『噛んでいるときにごはん粒を集めておけばいい』と教わってから、きれいに食べられるようになった。もっと早く教えてほしかった
※「いいね」し損ねてオリジナルのツイートを見つけられなくなってしまった。上記は大意

皆さんはこれを読んで、どう思われるんでしょうか?

私は実用書の編集・ライティングに長く携わっている。実用書というのは例えば「手紙の書き方」みたいなヤツで、できない人/わからない人に寄り添い、その人たちがなぜできないのか、わからないのかを考え抜いて、できる/わかるように解説していく。

これは言うほど簡単ではなく、だからこそ上手くやればお金がいただける。私は日ごろから、わからない人は何がわからないのか? を観察・考察し理解しようと心がけているつもりでいた。

しかし、ごはんの食べ方が汚い人は「ごはん粒を残さずきれいに食べ終えるには、食べながら適宜ごはんの集団から飛び出たごはん粒を寄せていけばよい」というノウハウがないのだとは、まったく想像もつかなかった。

実はウチの子供もごはん粒をきれいに食べられないクチだが、単純に「だらしない」とは思っても、それ以上に深く分析しようとは思ったこともなかった。なるほどなあ。できない/わからない理由というのは、ロジカルに考えようとすれば何にでもあるものだ。食べ残しを見て「きれいに食べなさい」と言うだけでは、問題を解決する方法を獲得できなかったわけだ。

いやまあ、大半の人は「汚い食べ終わりになりそうな要素を適宜修正しながら食べればきれいに食べ終われる」ぐらいの思考はできると思うし、「当たり前だろ(呆れ顔)」という反応になると思うんですけども、そう言ったところで彼らごはん粒残しクラスターの問題は解決しないし、お金にもならない。

なぜか? を深く考察し、誰にでも再現可能なノウハウ・ハウツーとして解決方法を伝えることに価値がある。

持てる者は持たざる者のことを理解できない、てなことはよく言われる。特に、自分が生まれながらにして得ていたもの、獲得しようと思うまでもなく獲得していたものを持たない人のことは、マジで想像もつかないものだ。

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